おそら飛びたい

ハンググライダー/パラグライダーで飛んだ記録とか

学生期間を振り返って

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修了したよ | Sylph ブログ

 

そこには書かなかったことも含めて。

 

大学生学部、大学院と6年間ハンググライダーサークルに所属してきた。

ハングにした理由はかっこいいから。本当にそれだけ。
入った当初は飛びたいだけで、飛んだらすぐやめるのか、続けるのかもわからなかった。とりあえずお金をためないとなぁと思いながら8月から入るといった。
実際は大学の友達と遊んでるだけでお金はたまらなかった。けど言ったからとりあえず8月に2回?4日間講習した。9月からは毎週末講習した。

最初は同期と馴染めなかった。8月ではすでにグループができていた。自分の性格の悪さ、ひねくれていたことも大きな要因の一つでもあった。悔しいから講習をがんばった。でもまともに教えてくれなかったから、回数をこなした。(当時の講習は今みたいに毎回ちゃんと教えてくれるわけではなかったのです。聞けば教えてくれたのかもしれないけど当時はわからないよね)

初飛びはお情けで最後の組(ERN、SZと同じタイミング、11月頭)に飛んだ。それからも毎週末いった。飛べない日もあった。寒い中一日まって降りるときはつらかった(会話もないし)
やっぱり馴染めなくて、悔しいから誘導は先に取ってやろうとがんばった。ちょっとズルもした。

結局フローター誘導はTKZW、UEHRの次、3番目にとった。1日で3本飛んだ。最後は微フォローの中テイクオフして微フォローの中ノーターンで降りた。ちゃんと降りれたからオッケーになった。フレアは得意だったのだ。これが14本目くらい?

このころ、SKあたりとも少し仲良くなれた。理由はよーわからんが一緒にいたらそんなもんだろう。

でもやっぱり馴染めてない感はあったので、ハングハーネスの誘導は先に取ろうとがんばった。21本目くらいでとれた。やっぱり3番目だった気がする。

ハングハーネス誘導を取った1本目、サル壁で回してたらめっちゃ低くなってやっべ~と思ってノーターンで帰ったらめっちゃおこられてバリオ没収された。無線入ってたらしいんだけど、電池の接触の問題で聞こえてなかったのだ。理由を話したら返してくれた。気を付けようと思った。それからも惰性で続けた、ほかにやることがわからなかった。

 

2年生になり、新歓。後輩MNKが3月ごろにメールを送ってきており、全員でサポートして講習をおわらせた。しかし天気に恵まれず、KMさんや板さんに頼んで朝6時ごろに飛ばす作戦で初飛びさせた。
5月か6月ごろ、初めてまともなソアリングが曇りの吸い上げの日にできた。SKと一緒だった。雲底に近づいてきたら、サル公に逃げろ~と無線が入った。俺はサル鉄塔、SKはサル壁に向かっていったのが思い出。二人ともバカだったんです。
一度ソアリングを経験するともう一度、という気持ちがあって、頑張って続けた、8月のnasas(学生大会)の出場条件が50本だったので、がんばった。8月には1500m以上あげられる日が二日くらいつづいて楽しかった。

11月にあった新人戦では、パラと同時開催で、ハングは俺、同期UEHR、同期TKZWの3人という状況。一応1位とってフライトスーツもらったけど、なんかなぁという気持ち。

当時12月に会った西学(龍門)では2nd、ターゲットで出場し、8人か9人くらいいたかな?測定距離内に入ったのは俺と同期UEHRのみで、UEHR1位、俺2位だった。

3月にあった学戦(耳納)では、学連が同時開催で学戦の前にあった。学連の時は飛べていて、学連にまともに参加していない板敷の連中は飛んで、学戦では条件的に飛べず、不満をぐちっていた。

12月ごろ、ショップが経営崩壊。悪いのは誰かってのは明らかだったけど、残された2グループはどっちもどっちって感じ。グダグダに巻き込まれ、結局板さん側につくことに。まぁソラピだとハングできないから学生的には仕方ないね。

 

3年生になり、GW合宿2週間前に担当者が逃亡。急きょ代理でやることになった。講習場もないし、宿も2週間前じゃ取れないしどーすんの?みたいな状況。講習場を貸してくれるCOOと板さんと話し合ったりなどした。
正直対処するだけなら、まぁまぁ大変くらいで終わったんだが、OGからの圧力などでストレスが溜まっていた。
合宿前日、もう準備することはないと思い、思い切って飛んだ。同期UEHRを誘ったが西風なのでテイクオフには来なかった。俺は西に飛んで2200m上がった。南風強くてファルコンにはきつかったが、初めて2000m超えて感動。自慢しまくってうざがられた。
GW合宿自体はまぁまぁうまくいったのではないだろうか。

 

8月、nasas直前にC級ライセンスを取り、LaminarRに乗り換え。まったく問題なかった。nasasでは1stクラスで出て、ぶっちぎり優勝。初日は条件悪く不成立。二日目は借りたGPSのシリンダー半径が10kmとかになっていて機能せず、2週くらいしたかな~のとこで諦めて筑波山へ。楽しかったが、順位的には真ん中くらいの600点くらい。
三日目は1時間半くらいしたら1stの選手っぽいのが誰もいなくなったので、3時間飛べば俺が1000点他が500点未満で俺が優勝するとわかっていたので、がんばって3時間飛んで優勝。

N草が2ndで初めて大会に出てきて、これが初対面。

 

冬の学戦(龍門)では、前日に調子に乗ってショップ横に西アプローチで降ろそうとして木の枝に下面を裂かれ、SKのFALCONで出場。UEHRが一緒に行こう行こう龍郎おごるからというもんだから言ったけど、結果として4位。UEHRは5位。やったね。LaminarRだったら優勝してたな~とマジで思う。
思えばこのころからUEHRが大会にひっぱってくれていたと思う。

たしか秋ごろ、安曇野の大会に出た。条件が悪かったけど楽しかった思い出。MNKがプッチンプリンを口にダイレクトに入れて遊んでいた。ランチャー台がくっそ滑ってトレッドミルみたいだった。

 

4年になると、研究室やらなんやらで忙しくてあまりイケてなかった。4年の初めのころは実質P証みたいな扱いでテイクオフスタッフなどをしていた。
もっと飛べばよかったと思う。nasasも結局出ず、最終日にダミーで行っただけ。(条件くそしょぼくて板敷での大会だった)。そういえばその時初めて一本吊りハーネスを使った。

 

M1になるとストレスであまりいけなかった。研究室のボスと合わな過ぎて、結局喧嘩して千葉にいくことになった。これは結果としてよかった。この精神状態を緩和してくれたのも足尾だった。秋には安曇野の大会に、また出た。ルール違反とかいてぶーたれていたけど、まぁ楽しかった。

年末年始には九州にツアーにいった。阿蘇大観峰で一番高く上がったのは、ツアーメンバーでは俺だけだと思うが、逆転層の上ですごくきれいだった。でも荒れてて怖かった~

M2では千葉の研究所になれるのと就活でそこそこ忙しかったが、夏ごろから復帰。よく飛ぶようになって、nasasにも復帰。くそみたいな条件だったけど、板さんと飛べたりして楽しかった。一応3位だけど、、、。

クリスマス(12/25)にお情けでXCP証をもらった。僕はクリスマスクロスカントリーパイロット!とかいってた。

年始には西富士にツアーにいった。最高高度2650mでめっちゃ楽しかった。

その後すぐに西富士JCにでた。初の社会人大会、うまい人も下手な人もいたけど、安全マージンと、レースとの割合が難しかった。自分の中で十分安全なフライトができたので、オッケーだと思う。板さんが幻のゴールになって、あんな顔してたのが印象的だった。

学戦in龍門では、GPSの設定の問題でシリンダー400m手前で曲がってたのでフリーフライトと一緒だった。一応ゴールしてたんだけどなぁ…

耳納では、ちゃんとゴールした日と、してない日が一日ずつ。した日がよかったので4位。れせぷがすごくて最高の大会だった。

板スプ(社会人大会)では、大変なこともあったが、ここでも俺は安全に飛ぶことを意識しなおさなければならなくなった。

 

 

6年間いろいろあった。やめようと思ったことも何度もあった。悔しい思いもしてきた。腹が立ったり、納得できなかったりすることもたくさんあった。でも、レースの楽しさを知れて、知らぬ土地の上を、雲の上を、富士山が見える空域を、逆転層の上の澄んだ空域を飛べる感動を得られたのは、ハングを続けてきたからこそだと思う。

ハングを続けて、大会にでて、いろんな人と出会えた。あんな奴らと出会うのは、こういうサークルじゃないとできないと思う。

パラも少しだけやった。ぼろいパラだからなんとも言えないけど、周りに何もなく自分が浮いていると自覚させられる感じや、浮きやすさ、操作の違いなどを感じた。それをさせてくれたショップに感謝。

色んな人を見てきた。嫌いな奴もいい奴も。そういった環境の中で自分の性格が変わってきたのが今振り返るとわかる。昔の俺は屁理屈だけで相手の感情を無下にしていたなぁと思う。今も全然足りてない。でもきっと前よりもいい方向に進んでいると信じたい。

 

そして同期がいたから、ここまで続けてこれた。XCPを取るモチベーションになった。XCPをとったからこそ、最後に社会人とレースができる環境に入れた。社会人になっても続けるモチベーションの一つになった。感謝。

 

社会人になっても、続けられるといいなぁ。まだ知らない楽しさがあるはず。

怪我なく、安全に、ちょっと背伸びをして、飛びたいね。